熊本大学沿岸域環境科学教育研究センター 嶋永 元裕
平成18年10月26日
かつて深海は、エサに乏しく、環境の変化の少ない安定した世界で、少数の特殊な生物種のみが生息している世界であると考えられていた。しかし1960年代以降、深海底生生物の種の多様性が、浅海に比べて高い事が分かってきたのである。
「一見一様な環境が広がる深海底において、何故種の多様性が高いのか?」
深海の種多様性が維持されるプロセスについては、いくつかの仮説が立てられているものの、それらを支持・否定する観測・検証は未だ十分されているとは言えず、このプロセスを解明する事は海洋生物学の重要な課題の1つになっている。
図1.優占率順に並べられた底生カイアシ類各種の平均相対頻度の時間的変動。エラーバーは標準偏差を、同じ色は同じ種を示す。頻度分布の形状、優占種の優占順位が、あまり変動しない事に注意 |
深海におけるもう1つの大きな発見は、深海に季節がある事である。海面から深海に供給される有機物は、わずか数%であるが、春、海洋表層で植物プランクトンが急激に増加すると、海中を沈降する新鮮な有機物の粒子量が相対的に増加するので、海底に到達するエサ資源の量も増加し、その結果、バクテリアなどの底生生物群集に時間変動が生じる事が、1980年代から分かってきたのだ。そして、このエサ資源の時間的な変動が、競争に弱い種の生存率を高める事により、深海生物の多様性が維持される要因の1つになっているという考え方がある。
そこで、相模湾中央部の深海底(水深約1430m)に設置された定点に置いて、海底の堆積物中の新鮮な有機物量が増加する数ヶ月前(1996、97年12月)、増加直後(97年6月、98年5月)、その2、3ヶ月後(97、98年8月)に、小型底生生物の優占グループの1つである底生カイアシ類の種多様性と群集構造がどのように変化するかを調べてみた。すると、相模湾中央部の種の多様性は、他の海域の深海底同様、種の多様性が非常に高い事が分かった(カイアシ類50匹中に含まれる種の期待値、約26種)が、種の多様性の値や、群集組成に季節変動はあまり無いのに対して、同じ月に採集されたサンプル間のバラツキが大きい事が分かった(図1)。この結果は、相模湾の底生カイアシ類の高い種の多様性は、エサ資源の時間変動によって維持されているのではなく、空間的な棲み分けを生み出す機構によって維持されている事を示している。
図2.ゴカイの巣穴と主な小型生物の分布。小型各種のサイズは誇張されており、分布中心は矢印で示されている。K。ライゼ「干潟の実験生態学」の図を元に著者が作成 |
一方、干潟も一見一様な環境が広がる世界だが、接近して観察すると、ゴカイやスナガニなどの大型生物の巣穴が、場所によっては表面を覆いつくし、干潟堆積物中に三次元的構造物を形成しているが、これらの巣穴の周りには、様々な小型生物が特異的に分布しているため(図2)、結果として干潟全体の種多様性の増加に貢献している事が報告されている。そして、干潟から遠く離れた深海底でも、ゴカイの作る構造物に特定の小型生物が集まっている事が知られているのだ。深海の種の多様性が維持される仕組みのナゾを解くカギは、より研究をしやすい干潟における多様性の維持機構に見出されるかも知れない。
演者が今年から赴任した沿岸域環境科学教育研究センターの合津マリンステーションは、日本最大級の干潟が広がる有明・八代両海の狭間に存在する。干潟生態系における大型生物の環境改変作用と、それがより小型の生物の群集構造・種多様性に及ぼす影響について、今後調べていくつもりである。