海底環境の変動と底生生物の反応

熊本大・沿岸域センター
准教授 嶋永 元裕

平成23年10月12日(水)

【還元環境はどうやってできる?(文献1,2)】

日本の沿岸閉鎖性海域では,梅雨期に大量の河川水が流入し,その直後に安定した天気(真夏日)が続く.その結果,塩分,水温両方の成層構造が発達する.この条件下では,海底付近の底層水の循環が停滞し,表層水に豊富に含まれる溶存酸素(O2)が下層に供給されなくなる.一方,海底に沈降・蓄積した有機物の分解に伴って溶存酸素が消費されるため,海洋下層に溶存酸素濃度が著しく低下した水塊が発生する(貧酸素化現象.貧酸素化は,海底に供給される有機物負荷が大きくなると助長される.

底層水の溶存酸素濃度が低下すると,海底堆積物中のバクテリアのうち,無気呼吸(無酸素条件下で,酸素のかわりに硝酸塩・硫酸塩などを用いてエネルギーを獲得する過程)をおこなう硫酸還元菌が活性化される.硫酸還元菌は,低分子の有機酸の酸化と硫酸塩(SO42-の塩)の還元を結び付けて化学反応を起こし,エネルギーを得る細菌であるが,この化学合成の際に硫化水素(H2S)が生成される.卵の腐った臭いの元であるこの物質が鉄イオンと結合すると,黒い硫化鉄となる.これが黒い泥(黒色層black layer)の色の正体である.また,硫化水素は血液中で酸素を運ぶヘモグロビンなどと結合して,これらの物質の機能を停止させ,海底堆積物中の底(べ)生生物(ントス)の呼吸に大きな障害を与える.

【環境の還元化が底生生物に与える影響 (文献1,2,3,4)】

海底への有機物負荷が増大するにつれて,堆積物中に見られる酸化層と還元層の境界(RPD層:Redox Potential Discontinuity layer)が堆積物表層に向けて上昇し,海底の大型ベントス群集は糸状の小型多毛類(イトゴカイ類)が卓越する単純な群集構造となる.最終的にRPD層が堆積物表面まで達して,硫化水素臭を発するようになると,大型ベントスは存在しなくなる.しかし,より小型のベントスには,還元的な環境に好んで生息する一群(チオビオスthiobios:ギリシャ語で「硫黄」を示すチオンと「生命」を示すビオスの合成語)が存在する.チオビオスには,先ほど紹介した硫酸還元菌などの細菌のほか,線虫類や渦虫類,顎口動物といったメイオベントスサイズ(0.031〜1mm)の多細胞動物も含まれる.チオビオスのメイオベントスは,貧酸素,高濃度の硫化物に対して高い耐性を持つ.還元環境に住むさまざまな線虫類の体内に鉄が発見されており,それに還元型硫黄(S2-)を結合させて解毒しているのではないかと考えられているが,還元環境に対する彼らの耐性を支える生理的なメカニズムについてはよく分かっていない.

【八代海湾奥部の海底に生息するメイオベントス群集の研究(文献5,6,7,8,9,10)】

八代海は,古くから「豊穣の海」と呼ばれ,干潟や藻場に恵まれた生物生産の高い海域であったが,赤潮の広域的な発生など近年環境の悪化が懸念されている.八代海は,その北側に隣接する有明海同様,閉鎖性が高い内湾である.特に湾奥部では,陸域からの土砂供給が一定して存在する一方,海流などによる外部への輸送が少ないため,一般的に浅海化・干潟化が進行しやすく,水質・底質の悪化や漁場機能の低下,農地の排水不良などの問題が顕在化している.地元の漁業者への聞き取り調査によれば,八代海北部湾奥部は,かつて良好なノリ漁場であったが,不知火干拓(1967年完成)以降,ノリの成長が徐々に悪くなり,ヘドロが増加してクルマエビなどが見なれなくなったのだという.しかし,八代海湾奥部の環境が,不知火干拓以降に変化したことを示すには貝類遺骸集団などの解析結果が必要だが,この海域の知見は八代海の中でも特に乏しい.

私たちは,八代海湾奥部に3つの定点を設置し,2010年度の春・夏・秋・冬季に,各定点において,水中の溶存酸素の鉛直プロファイル,堆積物中の有機物含有量,粒度組成,メイオベントス群集の季節変化を調査した.調査に当たっては,以下の2つの項目を作業仮説として念頭に置いていた.

1.八代海では例年夏季に海中に密度成層が生じ,海洋表層下の溶存酸素が低下する.貧酸素化は海底のメイオベントスに負の影響を与え,個体数を減少させるだろう.特に潮汐流動が停滞する傾向の強い湾奥部で,その影響は大きくなるだろう.

2.湾奥部ほど,メイオベントス群集内で環境悪化に耐性のある線虫類が優占するだろう.

海底直上の溶存酸素濃度は,すべての定点で夏季に4mg/L以下まで減少した.各定点のメイオベントス平均密度は春季に海底10cm2あたり500個体前後だったが,夏季にはKUB-3にて上昇,KUB-2で減少した.最も湾奥のKUB-1では,予想に反して個体数は通年一定であった .線虫類の割合は,すべての定点で季節を問わずメイオベントス全体の95%以上を占めた.各定点の堆積物中の全炭素,全窒素量,堆積物の中央粒径は一年を通して比較的安定した値を示した.しかし,湾奥全体のメイオベントスの時空間変動と強く関連する環境要因は,測定された環境指数からは見つからなかった.以上の結果から,少なくともメイオベントスにとっては,今のところ八代海湾奥全体が劣悪な環境下にあるわけではなく,局所的に環境悪化が生じていることが示唆された.今後は環境悪化の指標となる環境要因を再検討しつつ,メイオベントス群集の経年変化を追う予定である.

【参考文献】

  1. 堤 (2003) 富栄養化による環境撹乱(海洋ベントスの生態学, 第9章).東海大学出版会.
  2. 堤 (2006) 内湾域のベントス群集と有機物汚泥への適応(天草の渚,第11章).東海大学出版会.
  3. 伊藤 (1985) 砂のすきまの生きものたち.海鳴社.
  4. Giere (2009) Meiobenthology, second ed. Springer.
  5. 逸見 (2005) 八代海の干潟と生物.月刊海洋, 37, p53-58.
  6. 秋元・滝川・島崎・山下・松永・西村・田中・平城 (2006) 八代海北部の底質分布の特性.月刊海洋, 38, p97-104.
  7. 大和田 (2006) 八代海‐環境と生物の動態‐II.月刊海洋, 38, p73-78.
  8. 農林水産省農村振興局 (2008) 浅海化・干潟化による影響緩和のための一体的な基盤整備方策検討調査(八代海北部海域の環境保全及び改善のための基盤の一体的整備方策検討調査)報告書.
  9. 有明海・八代海干潟等沿岸海域再生検討委員会 (2006) 委員会報告書 〜有明海・八代海干潟等沿岸海域の再生に向けて〜.
  10. 滝川・田中 (2005) 八代海の物理環境特性.月刊海洋, 37, p12-18.

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