海底環境の変動と底生生物の反応

熊本大・沿岸域センター
准教授 嶋永 元裕

平成24年10月10日(水)

【干潟の生態系サービス】

生物多様性の価値を考えるためには,生態系サービス(ecosystem service)という考え方が大切になる.生態系サービスとは,生態系の機能の中で,人間に利益をもたらすもの,と定義される.干潟の生態系サービスとしては,高い生産性(食料資源生産の場),稚仔魚育成場,海水浄化機能があげられる.これらの生態系サービスを担うのが海洋生物である.

【還元環境はどうやってできる?(文献1,2)】

日本の沿岸閉鎖性海域では,梅雨期に大量の河川水が流入し,その直後に安定した天気(真夏日)が続く.その結果,塩分,水温両方の成層構造が発達する.この条件下では,海底付近の底層水の循環が停滞し,表層水に豊富に含まれる溶存酸素(O2)が下層に供給されなくなる.一方,海底に沈降・蓄積した有機物の分解に伴って溶存酸素が消費されるため,海洋下層に溶存酸素濃度が著しく低下した水塊が発生する(貧酸素化現象.貧酸素化は,海底に供給される有機物負荷が大きくなると助長される.

底層水の溶存酸素濃度が低下すると,海底堆積物中のバクテリアのうち,無気呼吸(無酸素条件下で,酸素のかわりに硝酸塩・硫酸塩などを用いてエネルギーを獲得する過程)をおこなう硫酸還元菌が活性化される.硫酸還元菌は,低分子の有機酸の酸化と硫酸塩(SO42-の塩)の還元を結び付けて化学反応を起こし,エネルギーを得る細菌であるが,この化学合成の際に硫化水素(H2S)が生成される.卵の腐った臭いの元であるこの物質が鉄イオンと結合すると,黒い硫化鉄となる.これが黒い泥(黒色層black layer)の色の正体である.また,硫化水素は血液中で酸素を運ぶヘモグロビンなどと結合して,これらの物質の機能を停止させ,海底堆積物中の底(べ)生生物(ントス)の呼吸に大きな障害を与える.

【環境の還元化が底生生物に与える影響 (文献1,2,3,4)】

海底への有機物負荷が増大するにつれて,堆積物中に見られる酸化層と還元層の境界(RPD層:Redox Potential Discontinuity layer)が堆積物表層に向けて上昇し,海底の大型ベントス(マクロベントス)群集は糸状の小型多毛類(イトゴカイ類)が卓越する単純な群集構造となる.最終的にRPD層が堆積物表面まで達して,硫化水素臭を発するようになると,マクロベントスは存在しなくなる.しかし,より小型のベントスには,還元的な環境に好んで生息する一群(チオビオスthiobios:ギリシャ語で「硫黄」を示すチオンと「生命」を示すビオスの合成語)が存在する.チオビオスには,先ほど紹介した硫酸還元菌などの細菌のほか,線虫類や渦虫類,顎口動物といったメイオベントスサイズ(0.031〜1mm)の多細胞動物も含まれる.チオビオスのメイオベントスは,貧酸素,高濃度の硫化物に対して高い耐性を持つ.還元環境に住むさまざまな線虫類の体内に鉄が発見されており,それに還元型硫黄(S2-)を結合させて解毒しているのではないかと考えられているが,還元環境に対する彼らの耐性を支える生理的なメカニズムについてはよく分かっていない.

【八代海湾奥部の海底に生息する底生生物群集の時間変動に関する研究(文献5,6,7,8,9,10)】

八代海は,古くから「豊穣の海」と呼ばれ,干潟や藻場に恵まれた生物生産の高い海域であったが,赤潮の広域的な発生など近年環境の悪化が懸念されている.八代海は,その北側に隣接する有明海同様,閉鎖性が高い内湾である.特に湾奥部では,陸域からの土砂供給が一定して存在する一方,海流などによる外部への輸送が少ないため,一般的に浅海化・干潟化が進行しやすく,水質・底質の悪化や漁場機能の低下,農地の排水不良などの問題が顕在化している.地元の漁業者への聞き取り調査によれば,八代海北部湾奥部は,かつて良好なノリ漁場であったが,不知火干拓(1967年完成)以降,ノリの成長が徐々に悪くなり,ヘドロが増加してクルマエビなどが見なれなくなったのだという.しかし,八代海湾奥部の環境が,不知火干拓以降に変化したことを示すには貝類遺骸集団などの解析結果が必要だが,この海域の知見は八代海の中でも特に乏しい.

私たちは,八代海湾奥部に4つの定点を設置(湾奥から沖に向かってKUB-1, Y48, KUB-2, KUB-3)し,2010年度の春・夏・秋・冬季,および2011年度の春・夏・冬季に,各定点において,堆積物中の有機物含有量,メイオベントス群集の季節変化を調査した.また,2010年度はマクロベントスの季節変化を調べた.2011年度からは堆積物中の硫化物量も測定項目に加えた.調査に当たっては,以下の2つの項目を作業仮説として念頭に置いていた.

1.八代海では例年夏季に海中に密度成層が生じ,海洋表層下の溶存酸素が低下する.貧酸素化は海底のマクロベントス・メイオベントスに負の影響を与え,個体数を減少させるだろう.特に潮汐流動が停滞する傾向の強い湾奥部で,その影響は大きくなるだろう.

2.湾奥部ほど,底生生物群集内で環境悪化に耐性のある生物(マクロベントスならイトゴカイ類,メイオベントスなら線虫類)が優占するだろう.

2010年度の各定点のマクロベントスの個体数は,夏季に減少したが,イトゴカイ類の顕著な増加は見られなかった.メイオベントス平均密度は海底10cm2あたり500個体前後だったが,夏季に測点Y48, KUB-2で個体数の有意な減少がみられた.最も湾奥のKUB-1では,予想に反して個体数は通年一定であった.線虫類の割合は,すべての定点で季節を問わずメイオベントス全体の90%以上を占め,特に個体数の夏季の減少がみられたY48 では,線虫の割合が夏季に上昇した.各定点の堆積物中の全炭素,全窒素量,堆積物の中央粒径は一年を通して比較的安定した値を示したが,Y48の海底に最も多くの有機物が蓄積していることが示唆された.Y48では,堆積物中硫化物の最高値が通年観察された.この測点は,不知火干拓の突出部沖,すなわち海域の幅が最も狭くなる地点に設置されている.この場所は有機物の蓄積しやすい場所であると考えられ,そのため環境が悪化して,堆積物中の硫化物濃度が高まり,夏季に底生生物が減少したのだろう.これらの結果は,八代海湾奥には環境の悪化した海域が少なくとも局所的・季節限定的には存在すること,しかしながら,湾奥部に向かうほど環境が悪化しているわけではないことを示唆している.

【参考文献】

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