生物多様性のある八代海再生の研究プロジェクト
 〜環境と防災の調和した八代海再生〜

熊本大学沿岸域環境科学教育研究センター長・教授
滝川 清

平成24年9月26日(水)

1.海域環境再生の視点

昨今、有明海域の環境悪化が顕在化し、諫早干拓堤防との関連においても社会的問題となっているが、有明・八代海のような閉鎖性が極めて高い海域における環境は、周辺に多くの都市部や農村地域を抱えており、本来陸域から輸送される種々の物質負荷により富栄養化や汚染が進行しやすい水域である。このような水域の環境は、気象や海象など自然の物理・化学的作用の影響の下で、生態系及び人為的行為などの複雑な要素が互いに関連し、その微妙なバランスにより形成された独特の自然環境にある。従って、閉鎖性水域における今日の環境悪化の原因分析と環境改善・再生方策については、水域・陸域全体の物理・化学的環境と生物生産過程を視野に入れた総合的取り組みが必要である。

この海域に於いても、各府省、県や研究機関等により環境改善を目指した対策や調査が数多く実施されているものの、これらの多くが個々の事象解明や、単発的なある側面からのみの技術対策の範囲内のものであって、物理環境と生物学的視点からのメカニズムに関する系統的・総合的視点が極めて希薄な状況にある。このため個々の対策事業の科学的根拠が薄く、改善効果の影響範囲などの十分な議論ができない状況にある。重要なのは、“個々の対策がどのような科学的根拠に基づき、どのような効果を有し、どの程度の影響範囲があり、海域全体にどのように影響を及ぼすか”を常に考えておくべきである。このためにも“海域全体の環境のバランス”を前提とした“海域環境再生のマスタープラン”を策定しておく必要がある。

このような中で、熊本県では、疲弊している海域環境の再生に向けて“出来るところから取り組むべき”との地域からの強い要望を踏まえ、沿岸海域の再生方策等を取りまとめることを目的として、学識者及び一般住民・漁業代表者で構成する「有明海・八代海干潟等沿岸海域再生検討委員会(委員長:滝川)」を2004年8月に設置した。委員会においては、2ヵ年度にわたって検討を行うとともに、既存データの収集等の各種調査、委員会委員と地元との意見交換会などを行い、「有明海・八代海干潟等沿岸海域の再生のあり方(マスタープラン)」を取りまとめた。その一連のプロセスは、有明海・八代海再生の県単位での総合的な取り組みとしては先駆的な試みである。

閉鎖性水域における環境問題は非常に地域特性が強い問題である。これは、水象・気象・地象を構成する水・大気・土の物理特性は基本的に地球上では大差が無いが、これらが相互に関係し合うことで、そこにしかない自然環境(境界条件)が形成されることになり、生態系もまた独特のものが形成されることになる。すなわち、環境問題の解決は、この地域の特別解を求めることから始まるものであり、地域の特性を解明することである。環境問題を総合的に捉えて一般解を知り(Think Global)、地域特性を調べて特別解を求めることは(Act Locally)、環境問題の解決に直結するものであり、そして、その成果は、他の地域にも通用する(Glocal)普遍性を有することとなる。

閉鎖性水域の環境は「地圏・水圏・気圏」の3つの環境基盤と、これに人を含めた「生態圏」の4圏より構成される複雑系にある。従って閉鎖性水域の環境改善・再生に当っては、水域環境のメカニズム解明のための総合的な調査・研究は当然のこと、この3つの環境基盤と生態系に対して、「何が・どこまでできるか?」を科学的に検討することが最も重要である。このような視点から海域環境の再生策の基本は、人が制御可能な事項となると、@底質環境(特に干潟環境)の改善技術、A水質環境(内陸からの水質負荷を含む)に関する改善技術、B人為的負荷の削減技術 の3つが技術の基本方針となる。

2.防災から減災へ

海域環境の悪化が著しい一方で、この有明海・八代海海域は台風の常襲地帯でもある。強風、豪雨による洪水、土砂災害、また高潮・高波等の海象災害などに悩まされ、自然災害に対する防災・安全対策は欠かすことができない。その反面、台風9918号による高潮災害に見られるような高潮対策のための海岸堤防等の防災構造物の建設が自然環境を阻害している面もある。すなわち、この海域では、「環境」と「防災」との相反する課題に直面している事実があり、環境あるいは防災のどちらかを選択するというような単純な課題ではなく、如何にして、この相反する、環境と防災に対処していくかという新たな課題があることを見据えなければならない。巨大化、頻発化の兆候が著しい自然災害に対し、“災害に強く安全でかつ環境と調和した、個性ある地域創り”に関する早急な学術的、技術的対応が強く要請されている。熊本県においては1999年の不知火町松合地区の高潮災害を受けて、熊本県高潮対策検討会(委員長:滝川)で「想定最大高潮」を対象とした、新たな高潮対策に向けた「減災」ソフト防災対策の重要性を提言し、他県に先駆けて減災対策の設計指針を示した。

従来の高潮対策は、既往最大もしくは生起確率にもとづく高潮防災の設計基準を決定しこれを堤防等の防災構造物で防護するハード対策と、予報・予知・避難等のソフト対策とに二分され、それぞれの対策が行政の異なる部署で策定・実施されていた。防災は行政の責任の下におかれ、住民は受態であって、行政は重大な責任を背負い、意思疎通の少ない閉鎖的な防災体制であった。今回の不知火海高潮は150年〜200年の生起確率を持ち、既往最大の高潮をはるかに超えたものであった。この生起確率は過去の記録に基づく分散値の平均であって、従来の基本的な高潮の設計基準である50年の生起確率にしても、あくまでも確立誤差を含む不確定な規準である。行政サイドによる一方的な規準であって、規準を遵守するために時には膨大な費用が掛り、規準を超えた場合には時として“言い訳”にもなり得る。

この不確かな規準に対して、この会議では、新しい概念“想定最大高潮”を高潮対策の基準とした。すなわち、各地点ごとに、想定しうる最大の高潮(たとえば、伊勢湾台風クラスの過去最大級の大型台風が、満潮時に最悪のコースをたどって来襲する場合など)を考えて、高潮・高波の来襲高さを算定し、これを防災構造物(ハード)および警戒・避難・情報(ソフト)の両面により対処する新たな概念である。もし、この想定最大高潮に対して堤防のみで防護するものとすると、その高さは異常に高くせねばならない。しかしながら、この最も危険な高さに対してこれを防災構造物のみで対応するのではなく、現状の堤防高さとの差、すなわち危険度を認識する事とともに、現状の堤防高さを、更に高くして安全性を増加し生命・財産を守るか、逆に堤防を低くして日々の生活の利便や景観等を優先させるかを、地点ごとに決めるというものである。各地点では、そこの社会・経済情勢や自然条件等によって堤防の高さが変わりうるであろうし、地域住民の意思によってその高さは決定されねばならない。住民は常に、災害への危機意識を持ち、住民自らが自らを守る姿勢と責任が必要であるし、行政は住民との合意形成に努めるとともに、堤防を越えた場合にどうするか? という、いわゆる“フェイル・セーフ(fail safe)”による対策を十分に立てておくことが重要である。この会議での提言は、さらに、環境への配慮、地域への防災教育・防災情報システム等を含めた総合的な高潮対策方策であって、他の県や国への高潮対策の大いに有用な“模範”である。

3.環境と防災・減災の調和への取り組み

(1) 有明海再生プロジェクト

平成17年度〜平成21年度の5カ年間の研究で、昨年度終了した文部科学省科学技術振興調整費による有明海再生のプロジェクト、『有明海生物生息環境の俯瞰型再生と実証実験(熊大代表:滝川教授)』の研究成果がまとめられた。その中で、熊本大学滝川教授が提唱している「なぎさ線の回復」が貧酸素水塊の制御や生物の増加などに最も効果的であることが分かった。この有明海再生プロジェクトでは、再生技術として他に「覆砂」「海底耕耘」「囲繞堤(いじょうてい)」「カキ礁の復元」などの現地試験を実施し、得られたデータを基に改善効果をコンピューターで解析しました。その結果、なぎさ線を有明海の湾奥部に復活させるだけで貧酸素水塊を約半分に減少させ、また、サルボウなどの2枚貝類を最も増やせることが分かり、今後の有明海再生技術の事業化に向けて、大いに期待されている。


熊本港「北なぎさ線」:多数のアサリ貝やタイラギ等の着床・生残を確認
写真1 熊本港「北なぎさ線」:浚渫土砂を有効利用

図2 「なぎさ線」の効果

(2) 八代海再生プロジェクト

平成23年度から、有明海のように調査・研究が行われていない「八代海」を対象として、文部科学省特別経費によるプロジェクト「生物多様性のある八代海沿岸海域環境の俯瞰型再生研究プロジェクト(代表:滝川)」が5カ年の予定で開始されている。

有明海同様、閉鎖度が高く環境悪化が著しい「八代海」の再生については住民や海域自治体からも強く切望されている。しかしながら、国の政策が有明海を中心に取り組まれていることから一向に改善が進まない現状において、今後さらに環境悪化が進むことが考えられ、そのため、地域に立地する知の拠点である大学が八代海の真の再生と地域環境創成に向けて取り組んでいく必要があり、その実施は急務である。

その概要は、地域に立地する熊本大学が、長年にわたり取り組んできた海域環境の研究・教育の実績に基づき、「環境変動の評価と予測手法の開発」「未知事象の解明」「再生技術の開発と実証」の学際的学術研究を進展して、「生物多様性の沿岸環境」を目指した八代海の真の再生に取り組むもので、八代海が抱える課題を、「自然・生態環境」「安全・防災」「開発・利用」の調和した新たな観点から取り組み、実施できる沿岸海域環境の再生策を熊本大学の研究者を中心に研究・検討する。環境・防災の両視点から検討した対応策は、八代海をフィールドとして自治体及び住民とが一体的に実施する成果として還元していくなどである。

従来、自治体や研究者は、それぞれの観点に対し個々に取り組んできた。しかし、それでは真の環境再生には結びつかないばかりか、更なる環境悪化を進めることになることから、本事業では、それぞれの観点である「自然・生態環境」「安全・防災」「開発・利用」を調和させた新たな視点から検討することにより、生物多様性のある八代海再生の俯瞰型方法論を構築して、真の環境再生と地域環境創成を行うこととしている。

このプロジェクトの地域への成果として、@海域環境の真の再生による生物多様性・水産資源の回復及び増加による地域活性化、A環境と防災の調和した安全・安心な持続性のある地域社会の形成、B底質改善や水質改善技術の開発による地域環境産業の振興など、大いに期待されてる。

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