熊本大学沿岸域環境科学教育研究センター
教授 瀧尾 進
平成24年10月24日(水)
養殖ノリは有明海・八代海における重要な水産資源のひとつですが、平成12年には深刻な“色落ち”問題などで生産量は激減し、社会問題となりました。私は,平成13年の沿岸域環境科学教育研究センター設置を機にノリについて基礎研究を開始し,現在まで「スサビノリ(養殖ノリ)色落ちの分子機構」と「スサビノリのレトロトランスポゾン」を中心に研究を進めてきました(図1)。
その後、逸見教授との共同研究として、干潟の環境保全に重要な塩生植物のうち、世界中に分布するハママツナの遺伝的多様性解析も始めました。さらに、各地で大量発生が問題になっているアオサについても逸見教授との共同研究を行っています。ハママツナやアオサの研究については予備的段階ですが、この市民講座や沿岸域センター講演会でもご紹介してきました。(熊本大学沿岸域環境科学教育研究センターホームページhttp://engan.kumamoto-u.ac.jp/index.htmlの「市民公開講座」や「沿岸域センター講演会」のページをご覧ください。)さらに、昨年から、八代海再生プロジェクトとして藻場海草アマモの付着細菌の研究も始めています。また、地下水を中心とした水環境科学についても関わることになり(http://www.gelk.info/)、スイゼンジノリ養殖場で発生するマリモ様藻類についても調べています。今回は、以前から問題となっていたスサビノリの培養トラブルについて、一昨年末にトラブルの見られた培養液から新種の細菌が分離されたことからやっと1つの進展が得られ、その成果を昨年の市民公開講座で「海藻付着細菌による環境モニタリング」と題してご紹介させていただきました。今回は、この新種の細菌の性質についての研究成果とスサビノリ自身が作る抗菌物質に関する研究をご紹介します。
「海苔の色落ち」は、赤潮プランクトンの発生などにより海水中の栄養窒素濃度が低下し、海苔の色素が分解することにより起こることが明らかになっています。沿岸域の環境問題として赤潮(red tide)や藻場の消失は良く知られていますが、最近ではアオサ類が大量発生するグリーンタイド(green tide)も大きな問題となっています(図2)。グリーンタイドは日本各地でみられ、九州においても博多湾などは良く知られています。熊本県では他県ほど大きな問題とはなっていませんでしたが、最近は顕在化し、新たな環境問題として本格的に取り組む必要がでてきました。藻場海藻、ノリの色落ち、グリーンタイドいずれも海藻や海草などの植物が沿岸域の環境ストレスに対する応答と考えることができます。 |
図2 沿岸域の環境問題 |
食用としているノリの葉状体は半数世代であり、冬期に成長し、春になると受精し倍数世代の糸状体となります。糸状体は貝殻に侵入して夏期を過ごします(図3)。スサビノリではフラスコ内で培養できる純系の培養株が分離されており、私たちはそれらを用いて研究を行っています。私達は、単胞子から生じた長さ1〜5cmの若い葉状体を実験材料として使用しています。葉状体は15℃、10時間明期/14時間暗期、空気の通気により培養を行っていますが、この培養条件では葉状体からの生殖器官の形成は見られません(図4)。一方、糸状体の培養温度は葉状体よりも高温の23℃で、連続明所で、通気はおこなわず静置培養されています。
図3スサビノリの生活環 |
図4 スサビノリの培養株 |
自然環境下では海藻表面に無数の細菌が付着していますが、海藻は有害な細菌の付着を防ぐ必要があるでしょう。海水中には臭素、ヨウ素、塩素などのハロゲン類が多量にあるため、海藻類はこれらを有機化合物と結合させた揮発性ハロゲン化有機化合物(VHOC)を合成し、それを自己防御物質として分泌していることが知られています。この有機物化合物にハロゲンを付加する反応を触媒する酵素がブロムペルオキシダーゼ(BPO)です(図5)。生育地から採取された多くの海藻は実験室内でBPO活性やVHOC生成能をもつことが報告されています。一方、アマノリ属はBPO活性もVHOC生成も無いことが報告されていました。VHOCは一種の消毒物質ですので、食用となるアマノリ属にはVHOC合成能がないことは当然のことのように思えました。しかし、私達は、5年前に実験室内で培養している糸状体は、BPO遺伝子が常時高発現しているが、葉状体は発現が抑制されていることを知りました。そして最近、糸状体はブロモホルムを合成することが明らかになりました。ただし、以前から私達の研究室で使用していた人工海水と光条件ではVHOCの生成はみられませんが、培養液にバナジウムとブロムを添加し、光強度を高くすると発生しました。それらの条件は自然環境下の範囲内と推定されました。一方、葉状体はこれらの培養条件ではVHOCを生成しません。しかし、重金属処理などストレス処理を行うとBPO遺伝子の発現が増大します。今後はストレス処理された葉状体はVHOCを発生するのか明らかにする予定です。
スサビノリの葉状体は無菌培養するとカルス状になり正常な葉状体が形成されないことが報告されています。北海道大学の嵯峨直恆教授のグループはスサビノリ葉状体を正常な形態に誘導する能力のある細菌数種をスサビノリ葉状体から2004年に分離しています(Mori et al.) 。その後,スサビノリ葉状体には多数の細菌が付着していると考えられていましたが,付着細菌の網羅的分離は行われていませんでした。しかし,2010年にスサビノリ葉状体から23種の細菌16SrRNA遺伝子配列が分離されました(Namba et al.,2010)。この報告では嵯峨研究室で分離された葉状体形成を促進する細菌は分離されていませんでした。これらのことから,スサビノリ葉状体にはこれら以外の細菌も付着している可能性が考えられました。私達も,正常な状態で生育している葉状体から付着細菌を分離したところ,予想よりも種類は少なく4種の配列(BPyGA1, BPyGA2, BPyGA3, BPyGB5)が分離されました。これらは,他の研究グループから報告された細菌とは異なっていました。
私たちは、スサビノリの葉状体を人工気象器内で培養しています。以前は人工気象器を廊下において使用していましたが、5昨年の大学の改修工事終了後は、それらは新築の実験室に移されました。しかし、移設当初から葉状体を新鮮培地に移すと培養液が白濁化し葉状体の成長が悪く研究を進めることができなくなりました(図6)。不思議なことに、同じ実験室内にあるノリの糸状体やノリ以外の植物は正常に生育していました。その後、ノリ葉状体の生長阻害の原因を探っていくうちに、実験室内の空気に揮発性有機化合物(VOC)が含まれている可能性があることが分かりました。そこで、幾つかの部屋で培養を試みた結果、私が使用している教員研究室に移すと症状は完全に消失して、以前と同様に正常に生育することが明らかになりました。そこで、仕方なくノリの葉状体だけは私の部屋で培養しています。その後、室内ガス成分を分析したところ、葉状体培養液が白濁化する部屋には、ごく微量ながらが他の部屋では検出されないジクロロメタン、2-エチル-1-ヘキサノール、エタノールが検出されました。葉状体培養では、室内空気をエアーポンプで吸い込み、フィルターを通して無菌空気を培養液に送り込み、液を撹拌しています。2-エチル-1-ヘキサノールは水にはほとんど溶けないことから、白濁化の原因物質はエタノールかジクロロメタンの可能性が考えられました。
エタノールが殺菌剤として利用されているように、エタノール資化性菌は特殊な細菌と言えます。シュードモナスの一種Pseudomonas fluorescens strain S227はエタノールを炭素源として生育する時に、抗カビ活性をもつ抗生物質(pyoluteorinなど)を作ります。この細菌は、色々な炭素源のもとで成長できますが、pyoluteorinをつくるのはエタノールとグリセロールだけでしたP. fluorescens S227は植物の根に感染し病気を引き起すカビ類の生物防御剤としてよく利用されています。BPy−1のエタノール代謝産物がどのような生理機能をもつのか興味ある問題です。
スサビノリ葉状体の培養により生じた白濁培養液から細菌を一種(BPy-1)分離し,16SリボソームRNA遺伝子の塩基配列を調べ,既存の細菌種の配列を比較したところ,ニュージーランドのミドリイガイ養殖場のプロバイオティクとして2010年に分離されたネプツノモナス属(Neptunomonas)の新種の細菌(Kesarcodi-Watson et al. Aquaculture 309:49-55)と配列が完全に一致しました。また,グラム染色性,胞子の有無,運動性,カタラーゼ反応,オキシダーゼ反応などの生化学テストの結果も上記の細菌とほぼ一致しました。次に,人工海水にジクロロメタンやエタノール加えて,BPy-1の成長を調べたところ,ジクロロメタンでは成長がみられませんでしたが,エタノールでは良く成長することが分かりました。人工海水には微量のビタミンを除いて炭素源は含まれていません。この実験から,BPy-1はエタノールを唯一の炭素源として成長できるエタノール資化性菌であることがわかりました。
エタノールが殺菌剤として利用されているように,エタノール資化性菌は特殊な細菌と言えます。シュードモナスの一種Pseudomonas fluorescens strain S227はエタノールを炭素源として生育する時に,抗カビ活性をもつ抗生物質(pyoluteorinなど)を作ります。この細菌は,色々な炭素源のもとで成長できますが,pyoluteorinをつくるのはエタノールとグリセロールだけでしたP. fluorescens S227は植物の根に感染し病気を引き起すカビ類の生物防御剤としてよく利用されています。BPy-1のエタノール代謝産物がどのような生理機能をもつのか興味ある問題です。
BPy−1がエタノール資化性菌であったことから、植物培養室で葉状体を培養したときに生じる白濁化は室内空気のエタノールが培養液に溶解しBPy−1の増殖を誘導したのではないかと考えられました。そこで、正常な葉状体培養液にエタノールを添加し、白濁化が起こらない教員研究室(図6)で葉状体を培養したところ、植物培養室の時と同様の白濁化が見られました。そこで、エタノールによって生じた白濁液から細菌DNAを回収し、16SrRNA遺伝子の配列を調べたところ、BPy−1の他にもう一種類の細菌BPyA3が分離されました。これは、エタノール無添加で生じた葉状体白濁液の場合と同じでした。BPyA3の16SrRNA遺伝子の塩基配列はBPy-1とは93%一致していました。BPyA3の生化学的性質はまだ調べていませんが、エタノール資化性であることは明らかです。また、不思議なことにエタノール添加の場合においても、通常の葉状体に付着している4種の細菌(BPyGA1, BPyGA2, BPyGA3, BPyGB5)の配列は検出されませんでした。
現在までにスサビノリ葉状体から分離された16SrRNA遺伝子配列をもとに分離された細菌の類縁関係を分子系統樹により図示したのが図7です。私達が分離した細菌6種の配列は他の研究グループとは一致しませんでした。これは葉状体の系統株が異なることによると考えられますが、それ以外に、PCRで使用するプライマーの違いによる可能性も残されています。
今までの結果からスサビノリ葉状体の白濁化を次のように推定しています。
1)スサビノリ葉状体にはエタノールを炭素源として生育できない4種の細菌が主要な細菌として付着している。2)2種のエタノール資化性細菌も存在するが、これらは正常な培養条件では成長は遅く、小さな集団として維持されている。3)エタノールを含む室内で培養されると、エタノール資化性菌は培養液中のエタノールを炭素源として異常繁殖するために培養液が白濁化する。
私たちは、培養液の白濁化によってスサビノリ葉状体は生育が阻害されていたために、白濁化細菌は有害な細菌であると考えていました。しかし、BPy−1やBPyA3は有害物質であるエタノールを除去するための有益な細菌として保持されているのかもしれません。
BPy−1やBPyA3が従来の葉状体付着細菌の分離法では検出できなかったことを考えると、今後有益な細菌を分離するためには、通常の細菌分離法に加えてストレスに応答する細菌を分離するという方法が有効かもしれません。今回はエタノールによって誘導される細菌を見つけることができましたが、今後は、その他のストレス処理により新たな細菌が分離できるのか調べる予定です。
ヒトの腸内には一人当たり100種類以上、100兆個以上の腸内細菌が生息しており、それらはバランスを保ちながら、一種の生態系(腸内フローラ)を形成していると考えられています。プロバイオティクスとは「腸内フローラ(腸内菌叢)のバランスを改善することにより人に有益な作用をもたらす生きた微生物」であり、乳酸菌などの有用菌はプロバイオティクスとして利用されています。養殖漁業では、高密度養殖に伴う魚病発生の予防・治療のために薬剤が使われることが多いですが、食の安全の観点等から問題があります。たとえば、養殖魚が感染症を発症すると抗生物質による化学療法がとられることが多いですが、抗生物質の多用により薬剤耐性菌が発生したり、周辺水域に流出した抗生物質が環境浄化を担っている微生物の活性を抑制するなどの問題が危惧されます。この対応策として、魚類消化管より分離した乳酸菌を魚に投与することによって、そのプロバイオティクス効果により、安全な魚を育てる研究が行われています。このようにヒトや魚は腸内にプロバイオティクスとなる細菌をもっています。スサビノリのBPy−1はニュージーランドのモエギイガイ養殖場のプロバイオティックスとして分離された細菌と塩基配列が一致することから、BPy−1はノリ以外の生物にも有用な働きをする可能性があります。さらに想像を膨らませると、BPy−1の付着したノリを養殖すると、海苔養殖場の近くの他の魚介類の養殖にも良好な効果を与える可能性があるかもしれません。