滝川 清・熊本大学沿岸域環境科学教育研究センター・教授
平成25年10月16日(水)
有明海・八代海のような閉鎖性の高い水域は,周辺に多くの都市部や農村地域を抱えており,本来陸域から輸送される種々の物質負荷により富栄養化や汚染が進行しやすい水域である.このような水域の環境は,気象や海象など自然の物理・化学的作用の影響の下で,生態系及び人為的行為などの複雑な要素が互いに関連し,その微妙なバランスにより形成された独特の自然環境にある.従って,閉鎖性水域における今日の環境悪化の原因分析と環境改善・再生方策については,水域・陸域全体の物理・化学的環境と生物生産過程を視野に入れた総合的取り組みが必要である.
各地の閉鎖性水域ごとに,各府省,県や研究機関等により環境改善を目指した対策や調査が数多く実施されているものの,これらの多くが個々の事象解明や,単発的なある側面からのみの技術対策の範囲内のものであって,系統的,総合的視点からの環境改善技術のものが極めて希薄な状況にある.
本稿では,現在なお環境悪化の原因が不透明のまま,十分な再生の方向性が見出せていない有明海・八代海を対象として,海域の環境改善へ向けた技術体系を整理し,現在,環境省で検討を進めている「有明海・八代海の再生」の方向性を紹介するとともに,「再生」を実現するための「シナリオ」に関して解説する.
閉鎖性水域における環境問題は非常に地域特性が強い問題である.これは,水象・気象・地象を構成する水・大気・土の物理特性は基本的に地球上では大差が無いが,これらが相互に関係し合うことで,そこにしかない自然環境が形成されることになり,生態系もまた独特のものが形成されることになる.
数値モデル的に言えば,水・大気・土の性状を表現する示性方程式や,物質保存式や力学的な釣り合い式などは,地域によらず世界共通であり,これらの微分方程式から得られる解は,一般解であって多くの未定係数を含んでいる.この未定係数を決定するのが境界条件であり,境界条件が地域に固有の地形形状,気象特性であり水の流動特性である.これらの境界条件が特解を定めることになり,はじめて有意な解となる.すなわち,環境問題の解決は,この特解を求めることから始まるものであり,地域の特性を解明することである.一般解の定性的な特性を知ることは必要ではあるが,真の解決にはならないのであって,他の地域で役立った環境対策が必ずしも対象としている地域には適用できないのである.
環境問題を総合的に捉えて一般解を知り(Think Global),地域特性を調べて特解を求めることは(Act Locally),環境問題の解決に直結するものであり,そして,その成果は,他の地域にも通用する(Glocal)普遍性を有することとなる.
閉鎖性水域の環境は「地圏・水圏・気圏」の3つの環境基盤と,これに人を含めた「生態圏」の4圏より構成される複雑系にある.従って閉鎖性水域の環境改善・再生に当っては,水域環境のメカニズム解明のための総合的な調査・研究は当然のこと,この3つの環境基盤と生態系に対して,「何が・どこまでできるか?」を科学的に検討することが最も重要である.
有明海・八代海の海域環境悪化の原因は,様々な要因が複雑に関係し合っており,環境省に設置の「有明海・八代海総合調査評価委員会」の委員会報告(2006)2)で議論されている. 有明海の物質収支のバランスが崩れた直接的な要因の一つとして,底質の悪化や,干潟の消失による生物生息場の減少・悪化によって,二枚貝類をはじめとする底棲生物の減少であると考えられている.底棲生物は珪藻や海底に沈降した有機物の捕食者や分解者として重要であり,この減少は,珪藻赤潮の頻発と持続,海底への有機物の蓄積による一層の海底環境の悪化をもたらすと考えられる.底質悪化の要因としては,都市化の進行等にともなう陸域からの栄養物質の負荷の増加,ダム等による河川からの砂等の比較的大型の粒子の流入の減少,潮流の変化などが想定されている.また,有明海における,夏季の貧酸素水塊発生,有毒赤潮発生,底棲生物死滅・減少,冬季の珪藻赤潮発生・持続,海底への有機物の蓄積の促進のループが形成され,環境変化と漁業・養殖業生産の低下を促進している可能性の検討と,定量的評価が必要である.その他,有明海の海洋環境や生物生産過程に影響を及ぼす可能性がある人為的な要因として指摘されている問題に,@環境ホルモン等の環境汚染物質の問題や,ノリ養殖の過程で使用されるA酸処理剤の問題がある.また自然的インパクトには,地球自転や太陽活動の周期的変化を背景としたB周期的な気候・海洋変動や傾向的変化としての地球温暖化がある.
すなわち,この海域の急激な環境悪化の要因には,干潟域の減少,沿岸域の開発,流域の都市化や農薬使用に伴う汚染物質の流入,河川形態の変化,大洪水に伴う土砂・汚濁物質の大量流入,台風や海流の変動による高温海水の浸入や潮流の変化,さらには地球温暖化など地球レベルでの気候変動も考えられるが,特に閉鎖性が高く,日本の干潟総面積の約49%を占める広大な干潟を有する有明(41%)・八代海(8%)における環境悪化の原因は,@人為的及び自然的な流入負荷と内部負荷の増加と蓄積,A高い浄化機能を有する干潟や塩性湿地の埋立てに伴う減少(この30年間で約15%の減少)および自浄機能の低下,の大きく二つの原因が考えられる.有明海・八代海は長年にわたる負荷の蓄積と,干潟の埋立てや海岸線の人工化および海岸線の一様化(場の多様性の欠如)などによる自浄作用の衰退によって「負のスパイラル(悪循環)」に陥っているものと考えられる.
閉鎖性水域の環境改善の視点から,環境悪化の著しいこの海域の再生策の基本は,人が制御可能な事項となると,
@ 底質環境(特に干潟環境)の改善技術
A 水質環境(内陸からの水質負荷を含む)に関する改善技術
B 人為的負荷の削減技術
の3つが技術の基本方針となる.
さらに,再生策に関する具体的な調査研究(環境変動のメカニズム解明,環境観測システムの整備,要因分析・改善技術の開発など)や環境情報・学術知見の共有・交換が重要な手段となる.
閉鎖性海域における環境の改善・再生に向けた技術対策の項目を,順応的管理の視点から体系化した模式図を図-1に示す.
技術のレベル1に相当する目的は,「有明・八代海の環境特性に応じた生物多様性のある海域環境」である.これを実現するためのレベル2に相当する個別目標が,「底質環境改善」,「水環境改善」,「負荷削減」の技術であり,これらは物理・化学・生物学的分野にわたる技術を含み,それぞれに陸域および海域における技術目標が設定される.
これらの改善技術の実施に当たっては,当然ながら海域環境変動の要因・原因の関連1)に基づくことが大前提であり,実施する海域地点の特性を踏まえ,技術の選定と技術効果を確認できる調査内容との論理的根拠を明確にして実施することが肝要である.実施技術や調査項目の優先度や選定の判定基準は,この論理的根拠の範疇とマスタープランの下で行われるべきである.レベル3は,個別目標における個々の技術の「改良と工夫」および「技術効果の評価」であって,「技術の改良と工夫」では生物生息環境場の回復・改善・創成・工夫・維持の視点からの技術改良・工夫が重要である.また,「技術効果の評価」では,実施技術のモニタリング等を通じての生物生息環境の評価と予測手法が重要な技術であり,数値シミュレーションやHEPなどの評価手法のより一層の精度向上と開発が必要である.生物生息環境の評価・予測技術に関しては数値モデル(生態系モデル)が多用されているが,実測の生態調査結果に基づく統計学的手法を両輪としての評価手法の開発・展開が望まれており,このための環境情報・学術知見の蓄積と共有化が重要な手段である.レベル2とレベル3との間での技術検討を重ね,より効果的な技術の進展を図ることが肝要である.
なお,個々の技術の実海域へ実施に当たっては,レベル1,2,3を関連づけるためのマスタープラン(共通認識)の概念が必要で,海域の特性に応じた適用技術の選定に注意すべきである.さらに,複数の技術の組み合わせによって,最も効果的な改善・再生策を講じることが重要である.
国家レベルでのこの海域についての取り組みは,2000年冬の「有明海ノリ不作」を契機に,有明海及び八代海を豊饒な海として再生させることを目的とした「有明海及び八代海を再生するための特別措置に関する法律」が2002年11月に施行された.この法律により,環境省に「有明海・八代海総合調査評価委員会」が設置され,総合的な調査の結果に基づいて有明海・八代海の再生に係る評価により,2006年12月に委員会報告がまとめられている2).しかしながら,具体的な再生方策に関する議論が十分でなく,解明すべき課題も数多く残されている状況にある.
環境再生の技術開発を目指して近年,水産庁では,「有明海漁場改善技術検討委員会」を設置し有明海の合計11箇所で,二枚貝類を対象にした覆砂技術や貧酸素対策技術開発事業を実施しており3),国土交通省では,浚渫土砂の有効活用を目的にした干潟造成技術の検討が試みられている4).これらは,水産漁業の改善,浚渫土砂の利用を主眼としたもので環境改善への系統的な視点が不十分である.また,八代海では平成19年度社会事業資本整備事業により「八代海北部海域の環境保全および改善のための基盤の一体的整備基本調査」が四省庁(水産庁,農林水産庁,林野庁,国土交通省)により実施されたのみであるが,海域の課題と基本方針を取りまとめた段階にとどまっている5).環境省の有明海・八代海総合評価委員会の流れの中で「有明海・八代海総合調査推進業務」が行われ,調査のためのマスタープランの策定が検討されたが,最終的には公表には至らなかった6).このように昨今,海域内の地点ごとに,各省庁を中心に環境改善と称した事業や対策が数多く実施されているが,一側面的な調査結果に基づく評価にとどまっており,物理環境と生物学的視点からのメカニズムに関する系統的・総合的視点が欠けている.このため個々の事業の科学的根拠が薄く,改善事業の効果の影響範囲などの十分な議論ができない状況にある.重要なのは,"個々の対策がどのような科学的根拠に基づき,どのような効果を有し,どの程度の影響範囲があり,海域全体にどのように影響を及ぼすか"を常に考えておくべきである.このためにも,"海域全体の環境のバランス"を前提とした"海域環境再生のマスタープラン"を策定しておく必要がある.
有明・八代海の特別措置法の関連で,中断していた環境省の委員会が,平成23年10月に再開され「有明海・八代海等総合調査評価委員会」として,有明海,八代海に,新たに橘湾,牛深周辺海域を加えて,これらの海域を対象にした再生方策の検討が開始されている.この委員会の下に,さらに「生物・水産資源・水環境問題検討作業小委員会」および「海域再生対策検討作業小委員会(委員長:滝川)」が設置されて,海域で生じている環境問題の要因・原因等の究明と,再生像の提示と具体的の再生手順を明示することを目標に,検討が始まり,その成果が大いに期待されている所である.
熊本県では,沿岸海域の再生方策等を取りまとめることを目的として,学識者及び一般住民・漁業代表者で構成する「有明海・八代海干潟等沿岸海域再生検討委員会」を2004年8月に設置した.委員会においては,2ヵ年度にわたって検討を行うとともに,既存データの収集等の各種調査,委員会委員と地元との意見交換会などを行ってきた.その一連のプロセスは,有明海・八代海再生の県単位での総合的な取り組みとしては先駆的な試みである.委員会での検討フローは図-2に示すとおりであり,各種調査結果や委員会での議論より,まず熊本県沿岸域の地域特性を把握・整理し,有明海及び八代海ごとにゾーン区分を行った.次に,より具体的に再生方策を検討する上で代表的な特徴を持つケーススタディー地区を選定し,有明海全体と八代海全体及び地区毎に検討を進め,干潟等沿岸海域の再生に向けた基本理念や基本方針,再生方策等を示した「有明海・八代海干潟等沿岸海域の再生のあり方(提言)」(マスタープラン)が取りまとめられた.
有明・八代海沿岸の各地域に共通する課題であって広域的な視点で取り組む必要のある主要な課題について再生方策を検討した.海域全体の望ましい姿としては,今回の調査結果,基本理念,基本方針を踏まえ,究極の再生目標である「豊かな海」のイメージに繋がる,多様で豊かな生態系の回復を基調とし,人と海との関わりについての目標を設定した.
再生方策については,課題の項目ごとに対応して設定したうえで,それぞれ具体の事例を示している.
委員会では,再生方策の推進に当たっての留意点も議論され,その概要を以下に示す.
・ 海域全体のバランスを考慮した方策の実施:各地域や個別に行われる方策が海域全体のトータルの質を高める視点を持つ.
・地域特性や課題に応じた再生方策の効果的な組み合わせの追及:対症療法,長期的取組み,広域連携的取組み,原因解明の研究,県民の意識改革・環境教育等のソフト対策を適切に組み合わせ,効果的な再生方策を追及する.
・科学的合理性と社会的合理性の乖離の解消:科学的合理性の追及が政策の遅れや,社会的合理性との乖離を招かないようにするとともに,乖離が見られる場合には,住民参加と社会的合意形成により回避・克服する.
・再生方策の評価システムの導入:再生の取組みの進行状況を県民及び関係者により組織される第三者により定期的に評価する.
・地域リーダーの育成:方策の実施に当たっては,地域において中心となるリーダーの育成を推進する.
・実行を担保する仕組みの整備:方策の実行性を担保するため,必要に応じて法や条例,制度等の仕組みについて,見直しなどを検討する.
閉鎖性水域の環境改善に向けて,多くの調査・研究,再生策の実施が様々な機関で行われているが,ほとんどの研究が,それぞれの機関が個々の目的に沿って実施されている実情である.調査目的・調査項目の整理を行って,系統的,総合的な"意義ある"調査・研究計画の下に再生技術の開発を目指す必要があり,このためにも各研究機関の連携,データ等の共有を図る体制を早急に確立せねばならない.
順応的管理の視点から,閉鎖性水域環境の@複雑な環境要因を解明・理解するための調査研究のあり方,A環境改善技術の開発とその選定・適用,B改善技術の効果の評価といった3つのサイクルを明確にすることが肝要であり,水域の小スケールの環境特性(ゾーニング)と水域全体の特性を把握した上で,水域環境改善へのマスタープランを早急に策定しなければならない.
海域の再生に当たっては,地域特性に応じた対応策が重要であって,科学的根拠に基づいた地域特性の把握と,持続的な環境再生の方策が必要である.このためには,行政・学識・地域の連携が不可欠となり,それぞれの役割を認識し,"何ができるか? 何をするか?"を十分に理解して,強い連携の下,系統的(マスタープラン,シナリオ)に実施するべきであり,その連携体制の確立が急務である.
八代海を再生するための研究プロジェクト「生物多様性のある八代海沿岸海域環境の俯瞰型再生研究プロジェクト」が,文部科学省の特別経費で平成23年度から5カ年間の計画で,滝川教授をリーダーとして沿岸域センターの教職員を中心としたスタッフで鋭意,進められています.八代海の海域や干潟の環境特性とその生物調査,環境の変化を予測するための数値シミュレーションや生物生息評価モデルの開発,地域特性に応じた再生と地域活性化の方策,「なぎさ線」などの環境再生技術の開発と実証試験等,14のテーマの下に鋭意進められています.今年の成果は,
平成14年1月25日(土):やつしろハーモニーホール
八代市新町5-20,TEL.0965-53-0033
のシンポジウムで発表します.多数の皆様の,ご参加をお願いします.
八代海再生研究プロジェクトの一環として,八代港内の一角に「なぎさ線」が,平成25年2月上旬に造成されました.これは,海岸線の人工化などで失われた"なぎさ線"を回復し,連続した地形を造成して,土・水・大気の触れ合う場を作って,生態系の連続性を創出して生き物の棲む場所を創成する事を目的にしています.造成後約半年で,二枚貝,カニ類,シャコ類など約30種類の生物が確認されており,生物多様性の効果が明らかになってきております.今後,さらに生物の種類・個体数が増えるものと考えておりますが,地域の皆様にも共同調査へのご参加をお願いしたいと思っております.なお,研究成果は随時,下記のホームページに掲載致しておりますので,是非ご覧いただきたく,ご案内致します. http://accafe.jp/kumamoto_u_yatsushiro/
なぎさ線で確認された生き物達 | なぎさ線で確認されたアサリの稚貝 |
八代港に建設された「人工なぎさ線」(平成25年2月) |