熊本大学沿岸域環境科学教育研究センター 教授
NPO法人:みらい有明・不知火 理事長
滝川 清
平成20年10月1日(水)
有明海、八代海、東京湾、伊勢湾、瀬戸内海のような閉鎖性水域や各地の沿岸域の環境質、生態系、生物生産基盤の劣化は目に余るものがある。わが国が、安心して生活できる国、安全な国であるには、自然災害に対する防災基盤整備とともに生物生産基盤を維持し、国民のための食糧確保が危機状態においても可能なようにし、合わせて、国土の環境が生態系を保持しうる状況になければならない。このための努力は、各府省、各分野、各地にてなされているが、効果が目に見えるまでには残念ながら至っていない。環境や生態系の再生は、これらが自己修復機能を有している間に、つまり生物群やその生息環境が復元できる状況にある間になされなければならない。
本研究は、有明海・八代海を対象とするが、この海域では陸域からの栄養塩や有機物の流入量は既にかなり減少しているにもかかわらず回復の兆候を見せずに悪化の傾向を示している。この意味で、自己修復機能はかなり低下しており、環境劣化のスパイラルに入り込んでいる。海域で生物生産を持続的にするには、海域を利用する各分野の従事者の努力に加えて、陸域からの各種物質の発生・輸送・負荷の過程全域にわたり制御する技術システムと社会システムが必要である。具体的な改善目標を設定し、それを達成するために俯瞰的立場から科学的知見を駆使することは、この海域にとって焦眉の急である。
有明海・八代海再生のための特別措置法(平成14年11月29日)が制定され、各府省の連携により施策が実施され始めている。しかしながら、研究は、個々の事象解明のためのものや、環境修復でもある側面のみに注目したものがほとんどである。各府省所轄の研究機関はそれぞれに課された研究課題の範疇を限定的に扱うことがほとんどで、対象とする閉鎖性水域全分野を視野に入れて研究課題の範疇を定めることには制度上無理がある。また、環境改善に、現象解明や基幹技術開発のような基礎的な研究を積極的に経費と時間をかけても、直接つながっていないのが実態である。
また、地球温暖化の影響により水温の上昇、海面上昇にともなう災害がすでに深刻化してきているが、大気環境の変化による気候変化、豪雨と渇水など両極端な現象の長期化と災害の巨大化が顕著に現れ、最近では、1999年9月の不知火海高潮災害、2003年7月の水俣「土石流災害」、2004年には史上最大10個の台風上陸を記録、これに伴う豪雨・強風・高潮・高波による災害、また、同じく2004年10月の新潟県中越地震災害、2004年12月にはスマトラ沖津波・地震災害、2005年8月には、米国メキシコ湾岸を襲ったハリケーン・カトリーナなど、巨大災害の頻発化とともに同時発生(複合災害)が相次いでいる。
台風の常襲地帯でもある熊本県下では、強風、豪雨による洪水、土砂災害、また高潮・高波等の海象災害などに悩まされ、自然災害に対する防災・安全対策は欠かすことができない。その反面、台風9918号による高潮災害に見られるような高潮対策のための海岸堤防等の防災構造物の建設が自然環境を阻害している面もある。まさに、この有明・八代海が直面する、二律相反した“環境と防災”の調和に関する早急な学術的・技術的対応を、緊急かつ積極的に行わねばならない
すなわち、この海域では、「環境」と「防災」という相反する課題に直面している事実があり、環境あるいは防災のどちらかを選択するというような単純な課題ではなく、如何にして、この相反する、環境と防災に対処していくかという新たな課題があることを見据えなければならない。災害に強く安全でかつ環境と調和した、個性ある地域創りに関する早急な学術的、技術的対応へのマスタープラン作りを早急に創り上げねばならない。海域の環境と防災に関するHardware(現象の理解・解明)およびSoftware(海域の保全対策と水産資源の確保・維持など)の従来の課題対策に止まらず、さらにLifeware(より高度な優れた海域環境の創成)の概念が今まさに必須の時である。
本講座では、有明海・八代海の海域環境及び防災に関する殆ど全ての国(各省庁)・県の委員会の委員長・委員(約30)を勤める立場を通して、その対策や政策への方向性を探り、提言する。
昨今、有明海域の環境悪化が顕在化し、諫早干拓堤防との関連においても社会的問題となっているが、有明・八代海のような閉鎖性が極めて高い海域における環境は、周辺に多くの都市部や農村地域を抱えており、本来陸域から輸送される種々の物質負荷により富栄養化や汚染が進行しやすい海域である。この海域では陸域からの栄養塩や有機物の流入量は減少傾向であるにもかかわらず回復の兆候を見せずに悪化の傾向を示しており、この意味で、自己修復機能はかなり低下しており、環境劣化の負のスパイラルに入り込んでいる。海域で生物生産を持続的にするには、海域を利用する各分野の従事者の努力に加えて、陸域からの各種物質の発生・輸送・負荷の過程全域にわたり制御する技術システムと社会システムが必要である。
国家レベルでのこの海域についての取り組みは、2000年冬の「有明海ノリ不作」を契機に、農林水産省に「有明海ノリ不作等対策関係調査検討委員会(第3者委員会)」が2001年3月に設置され、過去の調査データ整理・分析とともに、環境悪化の要因分析と環境変化の把握に関する課題が浮き彫りにされたものの、再生へ向けての対策等の提言には至らなかった。この有明・八代海の環境再生を目的に、「有明海および八代海を再生するための特別措置に関する法律(特別措置法)」が国会において成立、2002年11月29日に公布・施行され、これを受けて環境省において「有明海・八代海総合調査評価委員会」が2003年2月に設置され、「総合的な調査の結果に基づいて有明海および八代海の再生に関わる評価行い、意見を述べること」を目的に議論が重ねられ、2006年12月に委員会報告1)がまとめられている。しかしながら、具体的な再生方策に関する議論が十分でなく、解明すべき課題も数多く残されている状況にある。
このような中で、熊本県では学術的未解明事象の究明を座して待つのみに留まらず、疲弊している海域環境の再生に向けて“出来るところから取り組むべき”との地域からの強い要望を踏まえ、まず、環境の地域特性を把握し再生への方向性を探ることを目標に、学識者と県の関連部局、NPOを中心に「有明海・八代海再生に関わる情報交換会」を2003年10月より開始した。次に、この成果をふまえて、沿岸海域の具体的再生方策およびその方向性(基本概念)等を取りまとめることを目的として、学識者及び一般住民・漁業代表者で構成する「有明海・八代海干潟等沿岸海域再生検討委員会(委員長:滝川清)」を2004年8月に設置し、2ヵ年度にわたって検討を行うとともに、既存データの収集等の各種調査、委員会委員と地元との意見交換会などを重ね、2006年3月に委員会報告2)をまとめ、いわゆる「有明海・八代海再生のマスタープラン」として基本指針を示した。その一連のプロセスは、再生方策検討の実践的な手法として挙げられるとともに、有明海・八代海再生の県単位での総合的な取り組みとしては先駆的な試みである。
マスタープランとして取りまとめられた再生のあり方(提言)については、以下のホームページ上で詳細に公開されているので参照されると幸いである。
http://www.pref.kumamoto.jp/eco/saisei_plan/saiseikentou_1.htm
この提言を受け熊本県は、施策の調整・検討を行いながらケーススタディー地区のフォローアップなど(地域住民、NPOなどとの連携推進など)具体的な取り組みを開始したところである。熊本県のこの検討委員会の成果は、環境省の「有明海・八代海総合調査評価委員会」での貴重な資料として取り上げられ、また海域の環境変遷に関する聞き取り調査の手法や成果は、文部科学省重要課題解決型研究「有明海の生物生息環境の歴史的変動特性の研究」3)に取り入れられ、福岡、佐賀、長崎の3県の聞き取りと合わせ取りまとめが行われている。
海域環境の悪化が著しい一方で、この有明海・八代海海域は台風の常襲地帯でもある。強風、豪雨による洪水、土砂災害、また高潮・高波等の海象災害などに悩まされ、自然災害に対する防災・安全対策は欠かすことができない。その反面、台風9918号による高潮災害に見られるような高潮対策のための海岸堤防等の防災構造物の建設が自然環境を阻害している面もある(写真―1)。すなわち、この海域では、「環境」と「防災」との相反する課題に直面している事実があり、環境あるいは防災のどちらかを選択するというような単純な課題ではなく、如何にして、この相反する、環境と防災に対処していくかという新たな課題があることを見据えなければならない。巨大化、頻発化の兆候が著しい自然災害に対し、“災害に強く安全でかつ環境と調和した、個性ある地域創り”に関する早急な学術的、技術的対応が強く要請されており、これに関する事例を紹介する。
熊本県においては1999年の不知火町松合地区の高潮災害4),5)を受けて、熊本県高潮対策検討会で「想定災害高潮」を対象とした、新たな高潮対策に向けた「減災」ソフト防災対策の重要性を提言し、主要な施策として高潮ハザードマップを位置付け、他県に先駆けて減災対策の設計指針を示した6)。これを受けて、「熊本県海岸保全基本計画」および「有明海海岸保全基本計画」の策定に「減災」の概念が盛り込まれた。また、2003年の水俣集中豪雨災害7)を受けて、施設設備に加えて防災情報の収集・伝達、避難体制の強化といったソフト防災対策を重点的に進めており、洪水・高潮災害の対策に向けて「ハードとソフトが一体となった防災対策」、そして、被害を最小限に抑える「減災」へと災害対策のあり方の転換へと図りつつある。さらに、市町村の洪水・高潮ハザードマップの作成を支援する「ハザードマップ制作支援事業」(総称)を2005年度から県の重点施策として位置付け、減災プロジェクトチームを設立し基礎となる「洪水、高潮浸水想定区域図」の作成に重点的に取り組んでいる8),9), 10)
2006年4月に、(a)「熊本県 洪水浸水想定区域図作成指針 8)」および(b)「熊本県 高潮浸水想定区域図作成指針 9)」の2つの基本指針を定め、さらに、これに基づき市町村での浸水図作成方法を示した。(c)「熊本県 洪水・高潮ハザードマップ作成マニュアル 10)」を策定した。(a)、(b)の2つの基本指針は浸水想定区域図を作成するために策定したもので、効率的・効果的な洪水・高潮氾濫解析の方法を提示し、浸水想定区域図の作成のためのツール集であり、行政・技術者のために用意されたものである。浸水の種々のケーススタディを実施して、隣接する河川、本川と支川、洪水と高潮、外水と内水といった氾濫が重なる「複合型浸水区域」についてハザードマップを作成する市町村へのいくつかの表記方法の提案を示している。また、(c)の市町村のための「洪水・高潮ハザードマップ作成マニュアル」では、ハザードマップの作成目的、作成すべきハザードマップのコンセプト作りを認識させ、具体的なハザードマップの作成手順、作成内容や留意点を事例・資料を用いて分かり易く解説している。さらに、地域住民の意見の反映方法、ハザードマップの周知・活用について記載して、各地域特性に応じた地域ごとの「安心・安全」のための「マップ(Safety map)」づくりの作成手順を示しており、「減災」、「複合型災害」対策へ向けた基本指針・マニュアルは良き範例として特記すべき取り組みである。 写真-2 熊本新港に造成した「なぎさ線」:人工護岸前面に「なぎさ線」を造成して地形の連続性と生態系の連続性を創出
また、海域環境再生策の実施例として、人工海岸堤防の前面に連続した地形をつくる「なぎさ線の回復(写真―2)」12)や、泥化した底質改善策としての「人工巣穴」13)などユニークな現地試験を試みているところである。熊本県玉名横島海岸では、防護目的で建設された干拓堤防の前面に、連続突堤と盛砂工を施し“防護・環境と景観”に優れた新たな海岸堤防(写真―3)14)の事業が国(農林水産省九州農政局)とNPOとの連携で進められている。
地域には、水・地形・地質・気候などの自然環境と、歴史的・文化的な側面を含む人間社会・経済の環境によってそれぞれ固有の環境特性が形成されている.従って、自然環境と調和し、将来に亘って好ましい潤いのある、個性豊かな地域社会創りにおいては、地域環境に関する広範な分野からの多面的かつ総合的検討が重要である.
このような観点から、海域環境悪化の要因が不明のまま疲弊状態にあり、かつ毎年の高潮・高波、洪水などの水災害に悩まされ続けている有明・八代海の沿岸海域における「環境の再生・維持」と「海岸の防災・保全」に対処し、かつ地域特性に応じた沿岸域の創成を目標に、2002年6月に「NPO法人:みらい有明・不知火」を設立した.大学、国・県等の行政、民間企業および個人で構成される約200会員の法人で、学術・技術的な調査・研究とともに一般社会への環境・防災教育を中心に活動を行っている.さらに地域住民や関連の行政機関などとの連携を深めて、この海域の環境と防災に関する「診察」「診断」「治療」を行なう「海の総合病院構想」15)の実現に取り組んでいるところである.