〜有明・八代海の環境特性と再生への技術開発〜

熊本大学沿岸域環境科学教育研究センター 教授
NPO法人:みらい有明・不知火 理事長
滝川 清

平成21年10月21日(水)

はじめに

有明海、八代海、東京湾、伊勢湾、瀬戸内海のような閉鎖性水域や各地の沿岸域の環境質、生態系、生物生産基盤の劣化は目に余るものがある。わが国が、安心して生活できる国、安全な国であるには、自然災害に対する防災基盤整備とともに生物生産基盤を維持し、国民のための食糧確保が危機状態においても可能なようにし、合わせて、国土の環境が生態系を保持しうる状況になければならない。このための努力は、各府省、各分野、各地にてなされているが、効果が目に見えるまでには残念ながら至っていない。環境や生態系の再生は、これらが自己修復機能を有している間に、つまり生物群やその生息環境が復元できる状況にある間になされなければならない。

本研究は、有明海・八代海を対象とするが、この海域では陸域からの栄養塩や有機物の流入量は既にかなり減少しているにもかかわらず回復の兆候を見せずに悪化の傾向を示している。この意味で、自己修復機能はかなり低下しており、環境劣化のスパイラルに入り込んでいる。海域で生物生産を持続的にするには、海域を利用する各分野の従事者の努力に加えて、陸域からの各種物質の発生・輸送・負荷の過程全域にわたり制御する技術システムと社会システムが必要である。具体的な改善目標を設定し、それを達成するために俯瞰的立場から科学的知見を駆使することは、この海域にとって焦眉の急である。

有明海・八代海再生のための特別措置法(平成14年11月29日)が制定され、各府省の連携により施策が実施され始めている。しかしながら、研究は、個々の事象解明のためのものや、環境修復でもある側面のみに注目したものがほとんどである。各府省所轄の研究機関はそれぞれに課された研究課題の範疇を限定的に扱うことがほとんどで、対象とする閉鎖性水域全分野を視野に入れて研究課題の範疇を定めることには制度上無理がある。また、環境改善に、現象解明や基幹技術開発のような基礎的な研究を積極的に経費と時間をかけても、直接つながっていないのが実態である。

また、地球温暖化の影響により水温の上昇、海面上昇にともなう災害がすでに深刻化してきているが、大気環境の変化による気候変化、豪雨と渇水など両極端な現象の長期化と災害の巨大化が顕著に現れ、最近では、1999年9月の不知火海高潮災害、2003年7月の水俣「土石流災害」、2004年には史上最大10個の台風上陸を記録、これに伴う豪雨・強風・高潮・高波による災害、また、同じく2004年10月の新潟県中越地震災害、2004年12月にはスマトラ沖津波・地震災害2005年8月には、米国メキシコ湾岸を襲ったハリケーン・カトリーナなど、巨大災害の頻発化とともに同時発生(複合災害)が相次いでいる。

台風の常襲地帯でもある熊本県下では、強風、豪雨による洪水、土砂災害、また高潮・高波等の海象災害などに悩まされ、自然災害に対する防災・安全対策は欠かすことができない。その反面、台風9918号による高潮災害に見られるような高潮対策のための海岸堤防等の防災構造物の建設が自然環境を阻害している面もある。まさに、この有明・八代海が直面する、二律相反した“環境と防災”の調和に関する早急な学術的・技術的対応を,緊急かつ積極的に行わねばならない.

すなわち、この海域では、「環境」と「防災」という相反する課題に直面している事実があり、環境あるいは防災のどちらかを選択するというような単純な課題ではなく、如何にして、この相反する、環境と防災に対処していくかという新たな課題があることを見据えなければならない。災害に強く安全でかつ環境と調和した、個性ある地域創りに関する早急な学術的、技術的対応へのマスタープラン作りを早急に創り上げねばならない。海域の環境と防災に関するHardware(現象の理解・解明)およびSoftware(海域の保全対策と水産資源の確保・維持など)の従来の課題対策に止まらず、さらにLifeware(より高度な優れた海域環境の創成)の概念が今まさに必須の時である。

本講座では、有明海・八代海の海域環境及び防災に関する殆ど全ての国(各省庁)・県の委員会の委員長・委員(約30)を勤める立場を通して、その対策や政策への方向性を探り、提言する。

2.有明・八代海再生への取り組みの視点

環境悪化の要因と再生策

海域の環境は「地圏・水圏・気圏」の3つの環境基盤と、これに人を含めた「生態圏」の4圏より構成される複雑系にある。従って海域環境の改善に当っては、海域環境のメカニズム解明のための総合的な調査・研究は当然のこと、この3つの環境基盤と生態系に対して、「何が・どこまでできるか?」を科学的に検討することが最も重要である。このような視点から、環境悪化の著しいこの海域の改善・再生策の基本は、まず第一には、「人為的インパクトの低減」と自然環境の回復能力の再生、特に「干潟環境の回復と創造」および河川水を含めた「水質の改善」などの対策を行うことである。

この海域の急激な環境悪化の要因には、干潟域の減少、沿岸域の開発、流域の都市化や農薬使用に伴う汚染物質の流入、河川形態の変化、大洪水に伴う土砂・汚濁物質の大量流入、台風や海流の変動による高温海水の浸入や潮流の変化、さらには地球温暖化など地球レベルでの気候変動も考えられるが、特に閉鎖性の高い有明海・八代海における環境悪化の原因は、@人為的及び自然的な流入負荷と内部負荷の増加と、A高い浄化機能を有する干潟や塩性湿地の埋立てに伴う減少および自浄機能の低下、の大きく二つの原因が考えられる。

前者の負荷増加に関しては、主に流域山間部からの自然的流入負荷は流域圏の都市化等によって減少し、生活及び工場廃水や農業排水等の人為的流入負荷は、環境基準による規制や下水道の整備により主要河川では昭和50年代から横ばいか減少傾向にある。また、主に底泥からの溶出やそれに伴う植物プランクトンの異常繁殖、枯死等の自然的内部負荷は「底質の悪化」が大きく影響を及ぼしていることが知られており、突発的なものではなく負荷が長年に亘って少しずつ蓄積したことによるものと考えられる。

後者の干潟域と干潟機能の低下に関して、自然の干潟や塩性湿地は、陸域から供給される土砂が潮汐や潮流・波などによって、長い年月をかけて浸食や堆積を繰り返すことで形成され、陸から海までをつなぐ潮上帯から潮下帯までの連続した地形を有する多様な場所である。その多様な環境条件の下で高い一次生産(植物が光合成により有機物を生産すること)をもつ場所であり、この一次生産に支えられて底生生物や魚類、鳥類といった多種多様な生物が生息・来訪し、産卵、稚仔魚の生育の場としても機能している。さらに、そういった生物活動の下、食物連鎖を通じた物質循環がバランス良く効率的に行なわれることで高い浄化機能を有している。

しかし、有明海の干潟は江戸時代以前から戦後の食糧難の時代にかけては、主に農地などの土地を広げるために干拓が行なわれ、高度経済成長時期には工場や港湾施設等を造るために埋め立てられてきた。

干拓面積は江戸時代以前に約70km2、江戸時代に110km2、明治〜昭和10年代に34km2、昭和20〜30年代に13km2、昭和40〜50年代に39km2、環境省自然環境保全基礎調査によると、1978 年度調査から1989〜1991 年度調査の間に、有明海の干潟は220.70km2から207.13km2(6.1%減)に減少している(諌早干拓により消失した干潟(15.50km2)を減らすと188.41km2となり、14.6%減となる)。さらに、海と陸との境界線である水辺や海岸線は干拓による農地等を防護するための防災目的でコンクリート製の堤防が構築され、堤防前面に干潟はあるものの、潮上帯から潮下帯までの連続した地形をもった干潟や塩性湿地が姿を消している。このことは、有明海の環境悪化に大きく影響を及ぼしている。有明海は長年にわたる負荷の蓄積と、干潟の埋立てや海岸線の人工化による自浄作用の衰退によって「負のスパイラル(悪循環)」に陥っているものと考えられる。

以上の視点から、有明海を再生させるためには、負荷が蓄積することによって悪化した底質を改善する「場の改善」と、潮上帯から潮下帯までの連続した地形をもった干潟や塩性湿地を創生することで自浄作用を回復させる「場の回復」が重要な改善策となる。

再生への取り組み

国家レベルでのこの海域についての取り組みは、2000年冬の「有明海ノリ不作」を契機に、有明海及び八代海を豊饒な海として再生させることを目的とした「有明海及び八代海を再生するための特別措置に関する法律」が2002年11月に施行された。この法律により、環境省に有明海・八代海総合調査評価委員会が設置され、総合的な調査の結果に基づいて有明海・八代海の再生に係る評価により、2006年12月に委員会報告1)がまとめられている。しかしながら、具体的な再生方策に関する議論が十分でなく、解明すべき課題も数多く残されている状況にある。

昨今、海域内の各地点ごとに、各省庁を中心に環境改善を目指した対策が数多く実施されているが、重要なのは、“個々の対策が有明海・八代海の海域全体にどのように影響を及ぼすか”を常に考えておくべきであり、“海域全体の環境のバランス”を前提とした“海域環境のゾーニング”を早急に策定しておく必要がある。

このような中で、熊本県では学術的未解明事象の究明を座して待つのみに留まらず、疲弊している海域環境の再生に向けて“出来るところから取り組むべき”との地域からの強い要望を踏まえ、まず、環境の地域特性を把握し再生への方向性を探ることを目標に、学識者と県の関連部局、NPOを中心に「有明海・八代海再生に関わる情報交換会」を2003年10月より開始した。次に、この成果をふまえて、沿岸海域の具体的再生方策およびその方向性(基本概念)等を取りまとめることを目的として、学識者及び一般住民・漁業代表者で構成する「有明海・八代海干潟等沿岸海域再生検討委員会(委員長:滝川清)」を2004年8月に設置し、2ヵ年度にわたって検討を行うとともに、既存データの収集等の各種調査、委員会委員と地元との意見交換会などを重ね、2006年3月に委員会報告8)をまとめ、いわゆる「有明海・八代海再生のマスタープラン」として基本指針を示した。その一連のプロセスは、再生方策検討の実践的な手法として挙げられるとともに、有明海・八代海再生の県単位での総合的な取り組みとしては先駆的な試みである。

マスタープランとして取りまとめられた再生のあり方(提言)については、以下のホームページ上で詳細に公開されているので参照されると幸いである。
http://www.civil.kumamoto-u.ac.jp/kaigan/

この提言を受け熊本県は、施策の調整・検討を行いながらケーススタディー地区のフォローアップなど(地域住民、NPOなどとの連携推進など)具体的な取り組みを開始したところである。

有明海の再生・改善・維持方策の実施は早急かつ大きな課題であり、社会的にも強く求められているが、海域環境再生策のとして、生物生息の「場の改善」「場の回復」を目的とした事例として、その有効性が認められ、有明海の再生方策として大いに期待されている「人工巣穴による底質改善」9)、「干潟なぎさ線の回復」10)11)について紹介する。

「人工巣穴による底質改善」は、底生生物の巣穴を人工的に再現し、干潮時に干出する干潟域では水位差、干潟にならない場所では潮流を利用して、底泥中に上層水を輸送し、好気的環境を創出することにより底質改善を行なうものである。2006年より熊本県熊本市の中央部を流れる坪井川河口の干潟域と海域で現地実証試験が行なわれている。その結果、人工巣穴によって好気的な環境が維持し、硫酸還元細菌の減少が示唆され、人工巣穴が魚介類の産卵・生息場になるといった波及的な効果も確認されている。

「干潟なぎさ線の回復」は、海岸線の人工化によって失われた、本来水辺や海岸線にあたる潮上帯から潮下帯までの緩やかで連続した地形(以下なぎさ線)を創造することによって、生物や塩生植物等の生息場を復元し、干潟生態系が有している自己再生機能(浄化機能)を回復させる改善策である。熊本港で実証試験が行なわれており、2005年10月に東なぎさ線、2006年9月に北なぎさ線、2007年9月には航路周辺等のなぎさ線が造れない場所への対策としてエコテラス護岸12)が造成され、現地実証試験を行なっている。これらの結果、なぎさ線の回復によって、多種多様な生物の生息場が復元され、絶滅危惧種や希少種も多数確認されるといった効果が確認されている。

また、熊本県玉名横島海岸では、防護目的で建設された干拓堤防の前面に、連続突堤と盛砂工を施し“防護・環境と景観”に優れた新たな海岸堤防13)の事業が国(農林水産省九州農政局)とNPO14)との連携で進められている。

おわりに

地域には、水・地形・地質・気候などの自然環境と、歴史的・文化的な側面を含む人間社会・経済の環境によってそれぞれ固有の環境特性が形成されている。従って、自然環境と調和し、将来にわたって好ましい潤いのある、個性豊かな地域社会創りにおいては、地域環境に関する広範な分野からの多面的かつ総合的検討が重要である。

このような観点から、海域環境悪化の要因が不明のまま疲弊状態にあり、かつ毎年の高潮・高波、洪水などの水災害に悩まされつつ、さらに、巨大化・頻発化の兆候が著しい自然災害に対処しなければならない有明・八代海の沿岸海域においては、「環境の再生・維持」と「海岸の防災・保全」の両立は重要な課題であり、 “災害に強く安全でかつ環境と調和した、個性ある地域創り”に関する早急な学術的、技術的対応へのマスタープランを早急に創り上げねばならない。

参考文献

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