熊本大・沿岸域センター
准教授 嶋永 元裕
平成22年10月6日(水)
東京湾や三河湾、有明海など、閉鎖性の強い内海や内湾(沿岸閉鎖性海域)では、外洋から出入りする海水量が制限される。これに「河川からの大量の水の流入」という条件が重なると、海洋表層の塩分が薄まって密度が下がり、下層の海水と交じり合わなくなる。その結果、水深に対して、温度が急激に変化する層(塩分躍層)が発生し、塩分による成層構造が発達する。水温は、海水の成層構造を発達させるもう一つの要因である。夏期の日照により表層の海水が温められると、水深に沿って温度が急激に低下する層(温度躍層)が発生する。
日本の沿岸閉鎖性海域では、梅雨期に大量の河川水が流入し、その直後に安定した天気(真夏日)が続く。その結果、塩分、水温両方の成層構造が発達する。この条件下では、海底付近の底層水の循環が停滞し、表層水に豊富に含まれる溶存酸素(O2)が下層に供給されなくなる(図1-@)。一方、海底に沈降・蓄積した有機物の分解に伴って溶存酸素が消費されるため、海洋下層に溶存酸素濃度が著しく低下した水塊が発生する(貧酸素化現象、図1-A)。貧酸素化は、海底に供給される有機物負荷が大きくなると助長される。
底層水の溶存酸素濃度が低下すると、海底堆積物中のバクテリアのうち、無気呼吸(無酸素条件下で、酸素のかわりに硝酸塩・硫酸塩などを用いてエネルギーを獲得する過程)をおこなう硫酸還元菌が活性化される。硫酸還元菌は、低分子の有機酸の酸化と硫酸塩(SO42-の塩)の還元を結び付けて化学反応を起こし、エネルギーを得る細菌であるが、この化学合成の際に硫化水素(H2S)が生成される(図1-B)。卵の腐った臭いの元であるこの物質が鉄イオンと結合すると、黒い硫化鉄となる。これが黒い泥(黒色層black layer)の色の正体である。また、硫化水素は血液中で酸素を運ぶヘモグロビンなどと結合して、これらの物質の機能を停止させ、海底堆積物中の底(べ)生生物(ントス)の呼吸に大きな障害を与える。
海底への有機物負荷が増大するにつれて、堆積物中に見られる酸化層と還元層の境界(RPD層:Redox Potential Discontinuity layer)が堆積物表層に向けて上昇し、海底の大型ベントス群集は糸状の小型多毛類(イトゴカイ類)が卓越する単純な群集構造となる。最終的にRPD層が堆積物表面まで達して、硫化水素臭を発するようになると、大型ベントスは存在しなくなる。しかし、より小型のベントスには、還元的な環境に好んで生息する一群(チオビオスthiobios:ギリシャ語で「硫黄」を示すチオンと「生命」を示すビオスの合成語)が存在する。チオビオスには、先ほど紹介した硫酸還元菌などの細菌のほか、線虫類や渦虫類、顎口動物といったメイオベントスサイズ(0.031〜1mm)の多細胞動物も含まれる。チオビオスのメイオベントスは、貧酸素、高濃度の硫化物に対して高い耐性を持つ。還元環境に住むさまざまな線虫類の体内に鉄が発見されており、それに還元型硫黄(S2-)を結合させて解毒しているのではないかと考えられているが、還元環境に対する彼らの耐性を支える生理的なメカニズムについてはよく分かっていないのが現状である。
八代海は、古くから「豊穣の海」と呼ばれ、干潟や藻場に恵まれた生物生産の高い海域であったが、赤潮の広域的な発生など近年環境の悪化が懸念されている。八代海は、その北側に隣接する有明海同様、閉鎖性が高い内湾である。特に湾奥部では、陸域からの土砂供給が一定して存在する一方、海流などによる外部への輸送が少ないため、一般的に浅海化・干潟化が進行しやすく、水質・底質の悪化や漁場機能の低下、農地の排水不良などの問題が顕在化している。地元の漁業者への聞き取り調査によれば、八代海北部湾奥部は、かつて良好なノリ漁場であったが、不知火干拓(1967年完成)以降、ノリの成長が徐々に悪くなり、ヘドロが増加してクルマエビなどが見なれなくなったのだという。しかし、八代海湾奥部の環境が、不知火干拓以降に変化したことを示すには貝類遺骸集団などの解析結果が必要だが、この海域の知見は八代海の中でも特に乏しい。
熊本大学では2008年度より、「沿岸海域の豊かな社会環境創生」を目指す研究拠点(閉鎖性沿岸海域環境における環境と防災、豊かな社会環境創生のための先端科学研究・教育の拠点形成;プロジェクトリーダー:滝川教授)が設置され、沿岸域センター、理学部、工学部、文学部の教員が協力して有明海・八代海および東アジアの沿岸環境の研究を行っている。その一環として、八代海湾奥部に設置した3つの測点における定点観測が、2010年度の春・夏・秋・冬季に行われた。堆積物中の有機物含有量、粒度組成など、多岐にわたる測定項目のうち、私はメイオベントスの群集構造解析を担当している。解析は現在進行中であるが、途中経過を本年度3月に開催される沿岸域センター講演会で紹介する予定である。